高橋峯吉は安政5年(1858年)生まれ、安政の大獄の年である。そして江戸から明治へという激動の時代を幼・少年期に体験する一方、エジソンによる白熱電灯の発明(1879年)やフィラデルフィア万国博に電話が出品され評判になるなどの出来事(1876年)から、進取の気風に富んだ峯吉は新しい時代を予感していたとも考えられる。峯吉についての資料のひとつ、高荘館発行の「巌窟ホテルのしおり」によれば、教育は<寺子屋で初歩の漢字を習ったに過ぎなかったが、建築学や物理学に、或いは鉱物学に哲学に談論風発たるものがありました>と記されている。もうひとつの資料「建築新潮」誌、大正13年12月号の中で、当時の早稲田大学助教授だった建築家佐藤武夫が次のように述べている。
「高橋峯吉さんは面白い人である。新しい知識の一端をたちまち獲得して、それを直ちに
自分の既成概念の内に難なく収め込み、整理し、そこから鋭敏な処置を考案する立派な科学者である、と同時に自然の形象ないしは人為の工芸に向かって強い憧憬を持ち、さらにそれから掴み得たインスピレーションによって自分の中で再創造を試みようとする欲望と能力とを持った優れた技術家である・・・・・」と。