なぜ、峯吉は「高荘館」なるものを作ろうと考えたのだろうか。現在の高橋家の人々からの取材や、わずかに残されている資料からの答えはこうだ。ひとつは、峯吉が生活をしていた場所から僅かの距離、「巌窟ホテル高荘館」からも数百メートルの所に古墳時代後期の遺跡「吉見百穴」があること。これは現在では横穴墳墓跡ということになっているが、以前はヘンリーシーベルトなどにより原始住居跡であるとも言われていた。そんな影響から丘陵の斜面に穴を掘り、そこを住居にしようと考えたのではないか、という説。もうひとつは、年間を通じて気温の安定している岩穴の中は、物の保存などに適した快適な場所だと少年峯吉が発見したことだ、という説。父親の使いでタライを買いに行った峯吉は、その帰りにタライいっぱいの野イチゴを摘み、これを岩穴に隠しておいた。しばらくして行ってみると野イチゴは芳香を放つアルコールに変質しており、これを見て岩穴の特性を理解したことからだといわれている。
しかし以上は、きっかけではあっても、峯吉が3代150年をかけて作るのだと言い、峯吉自身46歳から67歳で死を迎えるまでの21年間を費やしたことを考えると、これらの説を単純に受け入れにくい、動機が客観的すぎるような気がする。もっと彼自身を内部から突き動かしたものがあるに違いない。