昭和14年から太平洋戦争(第二次世界大戦)の勃発する昭和16年まで栗原さんは日大芸術学部に在籍し、美学を学んでいた。ここで当時建築美学を担当していた浜徳太郎教授に影響を受けたという。浜教授は当時活躍していたMAVOの村山知義と親しく、栗原さんもMAVOのダダ的な活動の直接の影響は別にしても、何らかの影響は受けていたと考えられる。そして「給水塔」の取得に関して浜教授に意見を求めたり、教授も深谷まで「給水塔」を見学に来たこともあったそうで、当時の先端的な芸術的環境に栗原さん自身浸っていたことは間違いない。
とはいえ、その頃すでに病院の事務長という仕事を持っていた彼が、この家で何かを表現したかったのだとは考えにくい。まして新しいライフスタイルに挑戦したとも思えない。
「給水塔」に自身の世界の中心たるものを発見し住居と定め、この家を生きたと考える他ないのかもしれない。
もちろん具体的な生活を支えたのは、ベッドのある寝室や、TV、電話のある食堂、冷蔵庫のある台所や、浴室や便所などの部屋や設備、家具・什器だ。
けれども居住したのは「給水塔」、「給水塔」は彼の想像力によって家となり、封じ込められていた垂直の空間や裸の構造体、頂部の闇や、これを突き抜けたところの光や風が開かれた。それらが栗原さんの生に型を与え、彼はこれを生きた。